グローバル社会とお土産
言われ尽くされていますが、グローバルな社会が到来していますね。
とても便利なサービスやモノが手軽に、安価に手に入ると同時につまらなさを感じている人もいるのではないでしょうか。
僕は、その1人です。
僕は頻繁に行くわけではないですが、旅行が好きです。
その場所に行ってその場所にしかないものをみて、
その場所に行ってその場所でしか会えない人に会って、
その場所に行ってその場所でしか食べられないものを食べて。
旅は多くの発見があり、楽しいです。
そして、旅行といえば持って帰るお土産です。
このお土産がグローバル化によって死にゆくもののように感じています。
例えば、僕のおばあちゃんの話をしましょう。
おばあちゃんがヨーロッパに旅行に行った時、お土産を買って帰りました。
そのお土産を見ると「Made in China」の文字が。
ヨーロッパに旅行に行って中国産のお土産を買って帰るというのは不思議です。
また、おばあちゃんはお土産が重たいので日本を出る前にあらかじめお土産を注文して旅立ちます。
そして日本に帰国したタイミングであらかじめ注文しておいたお土産が届き、そしてお土産配布の行脚へと勤しむのです。
その場所でしか買えないことが価値だったはずのお土産が日本から注文されたものだというのも、こりゃまた不思議です。
かくいう実は僕も似た経験があります。
広島に住んでいる時、地元の先生にお土産の日本酒を渡しに伺いました。
しかし、あろうことかそのお土産を忘れてしまいました。
そこで、地元の近所のスーパーに寄り、広島のお酒を買って、
何食わぬ顔で先生にお土産として渡しました。
こうしたことから思うのは、
お土産の本質であるはずの「土地」とお土産が切り離されてしまっているということです。
その土地でないとできないことがなくなってきている中、
その土地であることを売りにしているお土産が成り立たなくなってきているようです。
どこに行ってもチョコクッキーでイラストが入ったクッキーがお土産やさんに並んでいますよね。
少し面白い名前やイラストが入っているだけで目新しさもないようなつまらないお土産。
もちろん、こう行ったお土産は「何をあげるか」よりも
「お土産をあげたかどうか」が重要視されているからこそ売られているのでしょうし、
それに対してつまらないといっても虚しいだけなのですし、
良く言うと「お土産よりもお土産話」が重要視されているわけですが、
やはりどこかさみしさを感じます。
くわえて面白いのは、八つ橋は京都、明太子は博多が有名ですが、
明太子の原料は博多で取れるわけではなく輸入していますし、
八つ橋の原料も京都で取れるわけではなく、京都である必然性はないですが、一般化して受け入れられています。
また、例えば京都だからと言ってお土産に申し訳程度に抹茶を入れればいいでしょ的なお土産も本質的ではないと感じます。
(かきながら、ではお土産の本質ってなんだ?って思うとわからないなとおもいました。)
あと、移動が圧倒的に早くなったことでお土産に食べ物が急増していることと関係があるのかもしれません。
お土産やさんで売ってる金色の剣に龍がまとわりついてるやつとかも、なんでお土産なのかわからないし、
最近売ってるお土産ってそもそもダサくね???っと思いました!(急にめんどくさくなった。)